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お笑い芸人 坂田利夫さんはどんな方だった?生前のご活躍をまとめてみました

昨年12月29日に老衰で亡くなったお笑い芸人の坂田利夫さん。

30日に所属する吉本興業が発表し、各界から故人を惜しむ声が上がりました。

その中でも注目を集めたのが松本人志さんがSNSでつぶやいたコメントです。

坂田利夫さんがいかに後輩芸人さんに慕われていたかがわかるいいメッセージですね。

確かに、坂田利夫さんは後輩芸人がネタにするなど、上下関係の厳しい関西お笑い業界の中で異色の存在でした。

この記事では坂田利夫さんの現役時代を知らない若い方に向けて、彼のご活躍をまとめてみました。

目次

坂田利夫さんのプロフィール

1941年10月7日大阪市港区出身。

本名は地神利夫(じがみ としお)。

此花商業高校(現在の大阪偕星学園高等学校)を卒業後、大阪ガスの関連会社に勤務。

1961年 吉本新喜劇のオーディションに参加。結果は不合格でしたが花菱アチャコさんが坂田利夫さんの潜在能力を見抜き、吉本入りする運びとなりました。

1967年 前田邦弘さんと漫才コンビ『コメディNO.1』を結成。

1970年 ラジオ大阪の第5回上方漫才大賞で新人賞を受賞。

1971年 第1回上方漫才コンテスト最優秀話術賞受賞。

1972年 読売テレビの第1回上方お笑い大賞金賞受賞。

同年の8月にテイチクよりシングルレコード『アホの坂田』を発売。

以降、坂田利夫さんの代名詞となります。

2009年 お笑いコンビを解散。

以後は高齢者施設で暮らしていたそうです。

坂田利夫さんの芸風は?

坂田利夫さんは今でいうところの「天然キャラ」で売っていた芸人さん。

代表的なギャグは「あ~りが~とさ~ん」「あんたバカね、オホホ~」などですね。

前者はお笑い芸人さんがよく使っていたので坂田利夫さんの名前を知らなくても聞き覚えがある人はいらっしゃると思います。

『国宝阿呆』など自伝も出版していました。

以前、新聞に載っていた書評を読みましたが、実生活でも面白いエピソードが満載。

公私の区別なく徹底的に「アホ」「ボケ」を演じているな、と感じました。

1980年以降は激動のお笑い業界

坂田利夫さんの経歴を見ていると1970年代に上方で大活躍していたことがうかがえますね。

では、どうして関西以外では知名度がやや落ちるのでしょうか?

日本のお笑い業界は1980年代に大きな変化がありました。

1981年、フジテレビで土曜日の9時から『オレたちひょうきん族」が始まります。

今はすっかり大御所になったビートたけしさん、明石家さんまさんなど当時の若手芸人がコントや歌、パロディを披露した大人気番組です。

テレビのお笑いといえば関西では吉本新喜劇、全国的にはドリフターズや萩本欽一さんが代表格でしたが、この番組が放送されて以降、パワーバランスが大きく変わります。

そして、お笑い芸人に「頭の良さ」「自己プロデュース能力」「外見」が必要になってきたのもこの頃です。

有名大卒のビートたけしさん、ゴールデン枠ドラマで主演がはれる容姿を持つ明石家さんまさんの存在は衝撃的でした。

 ある日、日経新聞の文化欄を読んでいると「アホの一枚看板では難しい」と坂田利夫さんの芸風を懸念する記事がありました。

最近、吉本興業の幹部があるトーク番組で「天然キャラはすぐに飽きられるから難しい。(普通の芸人以上の)努力が必要になる」と語っていて納得しました。

とはいえ、こうした時代の変化はあくまでも東京を中心としたテレビ業界の話。

大阪を中心とするお笑い業界では坂田利夫さんはずっと古典的な芸風を守る大物芸人でした。

最後まで「アホ」を貫いた坂田利夫さんは上方芸人の鑑といえるでしょう。

まとめ

昨年末に亡くなられたお笑い芸人の坂田利夫さん。

上方お笑い界の重鎮でした。

最後は後輩で50年以上親しくしていた間寛平さんに看取られたとのこと。

最後まで、芸風を貫いたストイックな姿勢や後輩に対するフランクな態度が魅力的だった坂田利夫さん。

謹んでご冥福をお祈りいたします。

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